竜ヶ崎第一高等学校は、明治33年茨城県土浦中学校の分校として稲敷郡龍ケ崎町に設置された。 2年後には茨城県龍ケ崎中学校として独立し、翌年4月、現在の白幡台へ移転した。 特別教室・講堂・付属図書館等の施設が整ってゆく中、運動会や修学旅行といった学校行事が行われ、 校友会各部の活動も盛んになっていく。明治は、本校の現在に至るまでの基礎が築かれていった時期である。
大正時代は第一次世界大戦・米騒動・関東大震災等、国内外ともに激動の時代であった。 また全国的に中等教育が大きく発展した時代であった。そういった状況の中、 龍ケ崎中学校も充実・発展の時期を迎える。明治35年に創部された野球部は、西村初太郎部長の指導のもと、 大正7年から5年連続全国大会出場という偉業を成し遂げた。また、校内では各方面の有識者を招いた講演が数多く開催されており、 創立以来提唱されてきた「文武両道」の精神が継承されていく様子をうかがうことができる。
昭和に入り、不安定な社会情勢の中、軍国主義教育が拡大してゆく。 この時期、学校行事として野外教練が多く行われるようになる。 十年代後半には報国団の結成、教職員の応召・出征・勤労動員と、戦時体制が学校生活に大きな変化をもたらした。 その一方で、伝統行事となった上野・龍ケ崎間駅伝競走やマラソン大会などが行われている。 結局の影響はあるものの、勉学・運動に情熱をもって打ち込む姿が当時の様々な記録から伝わってくる。
昭和22年、「教育基本法」・「学校教育法」が公布され、新学制(6・3・3・4制)が発足した。それによって龍ケ崎中学校は、 昭和23年4月に茨城県立龍ケ崎高等学校と改称され、さらに翌年茨城県立竜ヶ崎第一高等学校と再度改称された。 昭和24年には定時制課程が併設され、2年後には女子の入学もスタートし、男女共学の竜一高として新たな歴史を歩み始めた。 部活動が次々と復活したのもこの頃である。
昭和30年代は、全国的に生徒数が増え、本校でも学級数や定員数が増となった。図書館の増改築や体育館の竣工、 理科実験棟の改装、卓球場や合宿所の新築等が相次いで行われ、施設の充実が図られた。それに伴い、各運動部は県下高校の上位を占めるようになる。 「文武両道」の精神により、本校が大きく飛躍した時代であった。
また、定時制では、昭和30年夜間定時制となり、勤労学生たちが豊かで確かな足跡を残してきた。
高度経済成長の中で、白幡台の若人達は、修学旅行、体育祭、そして部活動と青春を謳歌した。 この時代特筆すべきことは、44年ぶりに硬式野球部が甲子園出場の夢を現実させたことである。さらに、49年には軟式野球部が第29回茨城国体で全国制覇を成し遂げている。 また創立70周年の頃には木造校舎が解体され、本館永久校舎や特別教室棟が誕生した。
昭和50年代が硬式野球部の甲子園出場(戦後2回目)に始まった。昭和49年に初開催の白龍祭が学校行事として発展していった。 現在の大学入試センター試験にあたる共通一次試験も開始され(昭和54年)、大学入試制度の変革への対応に苦慮した時期でもあった。 また、創立80周年を迎え、施設の充実が図られた。
政治や経済など国内外の情勢が大きく変動した時代である。本校でも創立90周年を迎え、そして白幡会館が建てられた。本校の新たなる変貌の魁である。
創立100周年を迎え、飛龍館、新校舎本館が次々と建てられ、白幡台の学び舎も徐々に変貌していった。 創立100周年の節目となる2000年には、硬式野球部が春の選抜大会では初めてとなる甲子園出場を果たしている。
茨城県は県立高等学校改革プランに基づき、令和元年に太田第一高等学校、鉾田第一高等学校、鹿島高等学校、竜ケ崎第一高等学校、下館第一高等学校に附属中学校を設置した。その後、令和2年に水戸第一高等学校、土浦第一高等学校、令和3年に下妻第一高等学校、水海道第一高等学校に附属中学校を設置した。令和2年に勝田高等学校を募集停止し勝田中等教育学校を設置した。中高一貫教育校が一気に増えることになった。
竜ヶ崎第一高等学校は1学年1クラスの附属中学校の設置に伴い、高校から入学する生徒200名を合わせて、卒業時には6クラス規模になった。
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